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日本語版によせて

  アラブ首長国連邦アブダビ出身のムハンマド・アル・フアヒーム氏が英語で書き、1995年1
0月に出版された「ボロをまとつた暮らしから一世代で裕福に」が井上信一氏により日本語に翻
訳され、このたび出版の運びとなつた。
 原作者のムハンマド・アル・フアヒーム氏は、アラブ首長国連邦でもつともよく知られている財
界人の一人で、アル・フアヒーム・グループの総帥として、父親の事業を引き縦ぎ、メルセデス・
ベンツやスイス航空のエイジエント、あるいはホテル・ホリデイ・インの所有者として幅広い財界
活動を行っており、1991年7月より94年3月までアブダビ商工会議所の第一副会頭を務めて
いた。最近亡くなつたご尊父がザイド大統領と近い関係ににあつたこともあり、アブダビの支配
階級であるナハイヤーン家の王族とは緊密な関係にあり、また、洒脱で社交性に富んだその
人柄の故に、アブダビ駈在各国大使のなかでもよく知られている。大使を呼んで大きなパーテ
ィを折に触れてやってくれるし、我々の招待もよく受けてくれる。いわばアブダビの民間を代表
する顔である。
 彼は語り部である。話がうまくて面白い。今から約二年半くらい前のあるパーティの夜、昔の
アブダピがどうであつたか話しだし−何についてかは忘れたが−それが大変面白く、また、貴
重にも思えたので、私から「そんな話を書き残した本はないのだろうか、なんらかの形で記録し
て置かないとそのうちに消えてなくなつてしまう」といつた覚えがある。後に彼から聞いたところ
では、この時の会話がこの本を書く一つのきつかけになつたとのことであつた。
 この本は、彼の祖父の時代に、アラビア湾のイラン南部沿岸のフルムツド地方からアブダビ
に移住したアル・フアヒーム家の歴史を横糸に、そして、英国統治時代、トゥルーシヤル諸国の
一部であり、今はアラブ首長国連邦になつているこの国、特にアブダピの歴史を縦糸に織りな
した事実に基づく物語である0今でこそ世界有数の富裕な国になつたアラブ首長国連邦であ
り、アブダピであるが、彼が生まれた1940年代以前はもとより、1960年代初め頃までのアブ
ダビは、今この国を構成する7つの首長国の中でももつとも遅れた、赤貧洗うがことき貧村であ
つた。もつとも、この貧しさをムハンマド少年が自覚していたとは言えないだろう。何故なら彼に
とつては、彼の住んでいる世界が全てであつたからである。1961年、初めてアブダビを出て
バハレーンに、ついで翌年ベイルートに旅した時の22才の少年の驚きと衝撃が、そしてアブダ
ビとの落差に愕然とするさまが、その時より30数年を経た後の披の文章に、生き生きと再現さ
れている。
 30余年といえば、いまだ現代史の一部であり、歴史として回顧されるほどの歳月ではない。
しかし、その間のアブダビの発展ぶりはまことに目覚ましい−歴史的状況など全く異なり、同列
には論じられないが、奇跡と言われた日本やドイツの戦後復興にも比肩しよう。アブダビ発展
の経過をみると、石油の生産が始まつたのが1962年、それから約20年の1985年くらいま
では、人々は我を忘れて狂乱の発展の渦に巻き込まれた時代、そして90年をはさんだその後
の10年、特に最近の五年間くらいは、一応の国造りが達成された後の落ち着いた発展期と言
えるのではないか。
 アラブ首長国連邦にとつて今年は、連邦結成25周年という大きな節目の年である。ザイド大
統領という英邁な指導者を得て、順調な発展を成し遂げた後の余裕と自信、そして将来への備
えとして、ここ数年、国の歴史を振り返ろうとの機運がでてきており、アル・フアヒーム氏がこの
本を書いたのも、このような機運のひとつの現れに他ならない。過去との断絶が余りにも激しい
ため、人々は苦しかつた過去を忘れかかつている、あるいは恥ずかしい過去として、これを意
識的に忘れようとしている。しかし、明日への進歩のためには、過去の困難な時代とその時代
を生き抜いてきた人々の勇気を忘れてはならない−これがこの本を貰くモティーフであり、ま
た、彼がこの国の将来を担う次の世代へ伝えんとするメッセージでもある。
 アラブ人であるアル・フアヒーム氏がアラビア語ではなく、何故英語でこの本を書き下ろしたの
か。今年の1月のある日の夜、この本の出版を記念して、著者を囲む懇談会が開催された。出
席者の一人からのこの点に関する質問に対して、彼は次のように答えた。
 「英国は180年間、宗主国としてこの国を支配したが、その間、学校一つ、病院一つ、アブダ
ビに作ってくれなかつた。少年の頃、私は充分なアラビア語教育を受けられなかつた。英国に
対する抗議の意をこめて、私はこの本を英語で書いた。」
 この本のアラビア語版、仏語版も日本語版と時を同じくして、出版されることを付記しておきた
い。
 訳者の井上信一氏は1993年7月より96年5月まで、アブダビ石油(株)の現地鉱業所長の
任にあり、また、その間アブダビ日本人会長を務められた。同社は1968年に設立され、73年
にアブダビ沖で石油生産を開始、アブダビ、アラブ首長国連邦の歴史と共に歩んだ会社であ
る。同氏がその職を去られるにあたり、この本の日本語訳に着手されたことは、石油を通じ日
本とアラブ首長国連邦との関係の緊密化に貢献されてこられた同氏のこれまでの業績に、まこ
とに相応しく、心から敬意を表したい。また、この日本語版がアラブ首長国連邦に対するわが国
官民の理解を深める一助となり、ひいては両国関係の増進に寄与することも間違いなく、深甚
なるお礼を申し上げる次第である。
 この本は仕事の面でアラブ首長国連邦と関わりを持たれる方にとつては、必読の書であり、
また、湾岸諸国、あるいは中東諸国一般に関心を持っておられる多くの方にも、読んでいただ
きたいと願うものである。

  1996年5月1日記
                                駐アラブ酋長国連邦特命全権大使 渡辺 伸



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